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韓国語しか話さなくなった母 / 玄真行

  僕は、テレビ・ドキュメンタリーを作るディレクターです。15年前に「故郷の家」、木浦共生園のドキュメンタリーを作り、田内文枝さんのNHK「課外授業 ようこそ先輩」もてがかけました。
 僕も在日2世で、韓国籍ですが、韓国語はわかりません。昔から、自分の国や故郷はありませんでした。在日ってなんだろうと考えて生きてきました。

 僕の家族は、戦前済州島から来ました。父は日本で勉強をしたいという夢を持って、お袋は済州島の貧しい生活から抜け、白い米を食べたくて日本に来ました。父は、風呂屋の下足番や丁稚奉公をして、貧乏でした。東京ではクズ屋をやり、死ぬ前は土方でした。父は、一度も故郷へ帰らないで亡くなりました。
 自分のもともとには、自分が在日であり、故郷、国、差別を考えると「人間って何?」と思ってきたことがあります。それを表現したかった。最初は作家とか、新聞記者になりたかったが、在日はそのころ就職が難しく、唯一ひっかかったのがテレビのプロダクションでした。

 テレビで何ができるのかと考えたところ、お袋のことを思い出しました。昔、家に13インチのテレビがあり、お袋は日本語があまり上手ではなかったのですが、日本のドラマを見て、泣いていました。お袋は、日本語は読めないし、書けない。一世の女性には日本語の読み書きができない人が多い。でも、どこの家にもテレビはある。僕は、テレビでお袋が泣くような番組を作ろうと思い、前に進むことができました。
 そのお袋が、脳梗塞で倒れ、僕の前で日本語を話さなくなりました。僕、嫁、息子、娘と暮らしていたのですが、韓国語しか話さなくなりました。僕は韓国語ができない韓国人、嫁は日本人、子どもたちはまだ小さく、家族のコミュニケーションが取れない。僕は「おかあちゃん、日本語喋ってよ」と言っていました。今考えると、僕と僕の家族にだけ韓国語を話していた。病院で医者の診察を受けるときには、一生懸命日本語を話していました。その時は、その意味に気付きませんでした。
 そんな時、妻が尹基さんの新聞記事を持ってきた。会社でプロデュ―サーに見せたら、「取材した方がいいぞ」と。そこで「故郷の家」のお年寄りを目の当たりにして、涙が出ました。「あー、お袋のことを忘れていた」「二世である僕は一世のことを忘れていた」と思いました。
 それから半年間「故郷の家」のドキュメンタリーを撮って、楽しかったです。お年寄りは「お前、飯食ったか?」と温かかった。「こんなところがあるんだ」と思いました。
 僕は暴力息子で、お袋をひどい目にあわせてきましたが、それ以後優しくなれる気がしました。それまでディレクターとして「一番になろう、有名になろう」と思っていたのですが、「ドキュメンタリーは人間を優しくできる」と気づきました。

 「故郷の家」では毎日、アリランを聴いていました。「故郷の家」にいる重度の寝たきりのお年寄りも、耳元でアリランを歌うと、ウソのようにはっきりと歌う。ほかの国にこんな歌があるのかと思い、韓国に行きました。
 アリランは、ラ・ウンユという映画監督が植民地時代に反日抗争の為に作った映画の主題歌として、反日の思い、そして在日の「恨(はん)」の思いを込めた歌と言われていました。しかし、韓国のシンガーソングライターのハン・ドリュさんは「お前のお袋、アリラン歌うよね?アリランは悲しいから、苦しいから歌ったのではないよ。昔、子どもが家の外で遊んでいてお母さんが『ご飯だよ』と呼ぶ。それがアリランなんだ。お前のお袋は、日本でつらかっただろうけと、アリランを歌うときは自分の楽しかったとき、一番良かった時を想って歌っているんだよ」と言いました。

 そのアリランの取材の後「故郷の家」の原点が見たくて、木浦共生園に行きました。ブラブラ歩いていたら、涙が出てきた。日本に帰り妻に「なんでだろうね?」と聞いたら、「愛があるんじゃない?」と言われました。それまで、愛なんて使ったことはなかったけれど、納得しました。
 田内千鶴子さんが勲章をもらうとき、「なぜ日本人に勲章をあげるのか?」という声もあったそうです。しかし、時の朴正熙大統領は「3000人の孤児を育てた人に、日本も韓国も関係あるか」といったと聞いています。

 お袋は、アリランを放送する2、3日前に亡くなりました。なんとか放送を見せたいと思ったのですが、見せることはできませんでした。番組の中に、アリランを使い、韓国語をたくさん入れた・・・。けれど、見せることはできなかった。

 お袋も死んでしまったけれど、在日一世もこの世からいなくなる時がきます。
 尹基さんは15年前から「故郷の家」を東京に建てたいって言っていた。僕も建ったらいいなと思っていました。もっというと、お袋を入れたいと思っていました。今でもできるならお袋を連れて行って「ここ、入る?」って聞いてみたい。
 自分がそのようなとき、故郷の家に入るか想像してみます。韓国の施設でも、日本の施設でも、在日の施設でもいいけれど、どうせなら「愛のある老人ホームがいいな」と思っています。


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