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田内千鶴子さんが遺してくれたもの / 橋本大二郎

 大会の開催、おめでとうございます。長い歴史の積み重ねの上に立った日韓の交流という縦糸と、子どもから一人暮らしのお年寄りまで、弱い方々のために温かい手を差し伸べようという福祉の横糸が織り成す、こうしたすばらしい会にお招きいただき光栄です。
 久々に樋口恵子先生ともお会いでき、ともに花粉症仲間にもなりました。玄真行さんのお話にひとつひとつ、うなずき、そうだという思いで聞かせていただきました。

友人の電話がきっかけで高知県知事に

 2007年まで、田内千鶴子さんの故郷である高知で16年、知事を務めましたが、生まれも育ちも東京です。それまで高知とは縁もゆかりもありませんでした。知事になるきっかけは、知事選の前年、家にかかってきた友人の電話です。高知大学大学院を出て、高知に住み着いた友人から、来年の知事選では、副知事が多くの団体からの推薦で出る。古い政治の流れが変わらない。そこで、お前に白羽の矢を立てた、ということでした。どうせ、飲んで盛り上がったところで出た話だろうと思い、名前を出すのは結構だから、それで大いに盛り上がってくれと電話を切りました。
 なぜ、私の名が出たかといえば、当時、私はNHKの夜9時のニュースTODAYで、社会部関係の事件や事故のニュースを伝えるキャスターとしてテレビにでていました。ちょうど、皇室担当として昭和天皇が体調を崩され、手術をされて亡くなられた、という経過を毎日のようにテレビでお伝えしていました。そんなわけで、私の名前と顔は全国に知れ渡っていました。私に白羽の矢が立ったのはそんな理由でしょう。
 しかし、その後、橋本大二郎を呼ぼうと5000人の署名が集まった、1万人の署名が集まった、と有志の方が東京まで来て熱心に出馬を要請される。それならと、後先考えずに、NHKに辞表を提出し、選挙に出馬したのが20年前、44歳の時でありました。

「土佐人」の血

 それが、田内千鶴子さんの故郷、高知との出会いということになります。しかし、正直言うと、そのころ、私は田内千鶴子さんの存在を知りませんでした。田内さんのことを勉強したのは、1997年、高知市の若松町、田内さんの生まれた場所に記念碑をつくろうという運動が始まったときのことです。これをきっかけに、私も田内千鶴子さんのたどった道、歩んだ人生、成し遂げたお仕事の数々を勉強する中で、ふと、高知の幕末の時の先人、二人を思い出しました。ジョン万次郎と坂本竜馬です。この二人と、田内さんは土佐人の血ということで、通じるものがあるのではないかと感じました。 その共通点というのは、海を越え、国と国との壁を克服してゆく力、人と人の間にある心の壁を取り払ってゆく力、ここに土佐人の血として共通するものがあったのではないかと感じました。

先駆者・ジョン万次郎

 本題と外れますが、少しジョン万次郎のことに触れたいと思います。ジョン万次郎は高知の西、土佐清水、足摺岬のある地方の漁師の息子として生まれました。父は早くに亡くなり、母も兄も病弱ということで、小さいころから漁師の仕事に出るようになった。16歳のとき、漁師仲間4人で漁に出て、嵐にあい漂流。鳥島という離れ小島にたどり着きました。そこでアホウドリなどを食べて、143日過ごした時に、沖合いをたまたま通りかかったアメリカのジョン・ハウランド号という捕鯨船に助けられて、ハワイまで運んでもらう。その船長が、ジョン万次郎という少年が非常に賢いと気づいて、一緒にアメリカに行って勉強しないか、と声をかけました。
そこが、土佐人のすごいところと思いますが、土佐清水という、今でもそうですが、当時はなおさらの片田舎で、世界も何も分からないのに「アメリカに行ってみないか?」と言われて、「ウン、行ってみたい」と答えたことです。
 この船長も病気で亡くなり、10年間にわたって、英語を学び、航海術や造船技術などを学んだ。10年間、米国にいて、25歳のときに、もう一度、母親に会いたいと思い、帰国の準備をします。上海に行く船に乗り、東シナ海で小船に乗りかえ、自分でこいで、沖縄の浜辺にたどり着く。それが、ちょうど160年前、1851年のことです。
 そのころ、米国のペリー提督が日本に来て、開国を迫るということがあり、その時代、ただ一人、まともな英語をしゃべれる人間として、ジョン万次郎は、すぐ江戸に呼ばれて、直参の旗本という身分を与えられ、通訳として日米和親条約、日米修好通商条約を結ぶために咸臨丸の一員となるなど、さまざまな活躍をしました。通訳として国と国とをつなぐという仕事だけでなく、ジョン万次郎が伝えた新しい世界観は、当時の若い侍、知識人にも大きな影響を与えましたが、その一人が坂本竜馬です。

万次郎の世界観を受け継いだ坂本竜馬

 世界観ということですと、万次郎はアメリカに行く船の中で、初めて世界地図を目にする。その地図を見て、自分の住む日本が、どんなに小さい国で、世界の中でどういう位置にあるかを知り、驚きます。同時に、わが日本は、海を越えて、これからは世界につながってゆかなければ、生きてゆけない、という世界観によって、航海や造船の技術を学び、伝えてゆく。それが、坂本竜馬の海援隊や日本初の商社である亀山社中の立ち上げにつながっていったのです。
 また、坂本竜馬には有名な「船中八策」というのがあります。その年の前年、薩長同盟の仲立ちをし、桂小五郎と西郷隆盛を引き合わせました。今にすれば、国内のことですが、幕藩体制を続けていた当時の日本にとって、各藩は国と同じような立場で競い合っていました。その中で薩長を結びつけたのは、今でいう国と国とを結び付けてゆく大仕事と同じだったと思います。

国と国、人の心の壁を取り払う

 田内千鶴子さんの人生を振り返ると、その大きなバックボーンのひとつはキリスト者としての博愛だったと思いますが、もうひとつ動かしたものがあったとすれば、ジョン万次郎や坂本竜馬と同じように、国と国との壁を考えずに行動してゆく、人の心の中の壁を取っ払って進んでゆくという土佐の血だったのではないでしょうか。
 田内さんが生まれたのは1912年。つまり、大正天皇が即位されるという変化のあった時代でした。田内さんは7歳の時に、父上の仕事の関係で朝鮮に行く。父上は当時、朝鮮総督府の役人をしており、当時としては恵まれた家庭のお嬢様でした。そこで女学校に通い、音楽を学んで、母親がクリスチャンだったことから学校を卒業した後も、教会の日曜学校のおてつだいをしながら暮らしていました。
 そのとき、恩師の先生から、木浦で共生園という孤児院をしている若い韓国人の伝道師、尹さんのお父さんですが、尹致浩(ユン・チホ)という人が手助けを欲しいというので、共生園に行ってボランティアをしてくれないか、と声をかけられる。
 そこで、田内さんは将来の夫である尹致浩と出会い、それが、田内さんの人生を変える大きなきっかけとなるのですが、行って見ると、孤児院と言っても、小さなバラックがひとつあるだけで、その中で40人、50人という子どもたちが暮らしていました。
 木浦というところは、島がいっぱいあって、美しい漁村、港町ですが、貧しい地域なので、孤児院として預かってくれる場所があると、うちの子も預かって欲しい、と預ける人もおり、子どもたちが増える時期でした。それを見て、千鶴子さんはクリスチャンとしての心のつながりで、共生園の運営を助けてゆきますが、2年たったときに「二人でこの子らの親にならないか」と尹致浩から声をかけられます。千鶴子さんは、最初、何のことか、と思いましたが、それが尹致浩のプロポーズだったのです。

田内千鶴子 波乱万丈の生涯

 当時は日韓併合の時代。日本が朝鮮を植民地としていた時代なので、日本人の中には蔑んだ目があり、韓国の人には当然、反日の感情がありました。そういう中で、韓国の青年と日本の女性が結婚することは、日本の社会から見ても、韓国の社会からみても、白い目で見られる、長続きはしないだろうな、と陰口をたたかれました。しかし、二人は、それぞれの社会を気にすることなく、ふたりで手を携えて、子どもを育てるという事業に打ち込みました。
 それから6年後、1945年に日本の敗戦を迎える。そのことによって、日本の立場は180度変わりました。それまで、植民地支配していた日本人が敗戦国の当事者となり、それまでずっとたまっていた韓国の方々の日本に対する思いがいっぺんに噴き出す。そのため、日本人妻である千鶴子さんに対し、身内からも厳しい声が上がりました。しかし、そのときに、共生園の子どもは、オモニに何をするのだ、と千鶴子さんを守ってくれたといいます。
 しかし、日本人妻をもっているということで、夫の尹致浩に危害が及ぶのではないか、危険が近づくと考えた千鶴子さんは考えた挙句に年老いた母親と一緒にいったん、日本に帰国する決断をします。そのときは、3人目のお子さんがお腹にいました。この子を産んだら、もう一度、木浦に戻ろうという思いで帰国したそうです。
 お母さんは、もう日本にとどまりなさい、韓国に行くのは諦めなさいと、引き止めましたが、子どもたちへの思い、尹致浩への思いを断ち切ることができず、1947年に木浦に戻り、その後は、尹鶴子(ユン・ハクジャ)という韓国名で一生を通しました。
 それも、楽な道ではありませんでした。1950年には朝鮮動乱が始まる。38度線を越えてきた北軍が木浦を占領し、今度は北軍の銃口が日本人妻である千鶴子さんに突きつけられました。その時には木浦の村人たちが「尹鶴子はそんな女性ではない」と声をそろえて、千鶴子さんを守ってくれたそうです。ただ、それも束の間。今度は韓国軍が木浦を取り戻すと、韓国軍は尹致浩がスパイではないかとの容疑をかけ、尹致浩が逮捕される。尹致浩は戻ってきますが、本当に波乱万丈で、尹致浩は子どもたちの食料を調達してくると言ってでたまま、戻らなかった。
 千鶴子さんは、夫は必ず戻ってくると頑張りましたが、1953年停戦協定が結ばれた後も、結局、戻ることなく、行方不明のままとなりました。それでも、尹基さんもそうですが、ご自分のお子さんも、孤児たちも、同じ環境の中で、わけ隔てなく育て韓国の3000人の孤児たちを育て上げるという仕事をされた。

共生園で感じたこと

 私も一度だけ共生園を訪れました。1998年、記念碑ができた翌年のことです。ただ、いろんな仕事をあわせて伺ったので、共生園での滞在は1時間余りという短い時間でしたので、この1時間のあまりのことを敷衍して言うことは控えます。が、そこで共生園のたたずまいを肌で感じ、共生園の子どもたちと少しの時間でも接する中で、千鶴子さんが果たしてきた歴史の一端を感じた気がしました。
 私は日韓の歴史問題には関心が高いほうですが、それには、きっかけがありました。最初のきっかけはNHKの記者として駆け出し時代をすごした福岡のことです。裁判所を担当していたときに、韓国の密航者のソン・シントウという人の裁判がありました。彼は、戦争中に日本軍に徴用され、広島の工場で働き被爆し、その後、韓国にもどった在韓被爆者の一人でした。そのとき、彼は「私はただの密航者ではなく、原爆症の治療を受けるために密航してきたのだ」と国と争いました。
 その裁判取材を通じて、地元の人権派の弁護士や、全国の活動家、指紋押捺反対運動や外国人登録証を焼くとか、過激な人々も含めていろんな方とのお付き合いをしながら、日韓の歴史問題を少なからず勉強しました。

共生の思いが重なる

 知事時代の話になりますが、1995年、終戦から50年という大きな節目の年を迎え、高知の韓国民団の方々が知事室にこられ、終戦後50年という節目として、在日韓国人に対する待遇を改めて欲しい、との要望を受けました。その中のひとつに、日本人でないと国家公務員、地方公務員になれない、外国人に受験資格も与えないという「国籍条項」というものが、あった。国籍条項を撤廃して欲しい、との要望でした。
 それを聞きながら、記者時代の取材を思い出しました。「国籍条項」は、日本の法律には一行も書かれていなくて、当時の国・自治省は外国籍の人は公務員になってはいけないというのは、法に書くまでもない、当然の法理だとして、超法規的な理由で受験資格を認めていませんでした。
 自分自身の経験から言っても、永住者とくに特定永住者に県の職員になってもらったとしても何か支障が生じることは、論理的にも、また、実際としてもありえないと思いましたし、そう感じていました。
 在日コリアンに門戸を開くことが、50年を迎えた新しい共生の道を開くことではないか、と思い、1995年に国籍条項の撤廃を打ち出しました。しかし、これには、国からも大変な抵抗もあり、県内にもさまざまな議論があり、実際にはその議論を消化するのに2年間かかりましたが、1997年に高知県は、県ベルとして初めて、厳密にいうと一部は残りましたが、撤廃できた。共生園を訪問したのは、その翌年です。しかも、そのときの韓国民団の女性部長も一緒に共生園に随行してくれたので、わずかな時間の中でも、田内さんの果たしてきた役割と、自分の行政の中での仕事が、自分の思い過ごしかもしれないが、共生という中で、重なり合うことができたのではないかと思いました。

文化の壁を取り払う

 田内さんが遺してくれたものは数々ありますが、中でも田内さん自身が意図したことでなくても、田内さんのことがきっかけとなり、日韓の関係が大きく変わったことがあると思います。
 そのひとつが、互いの大衆文化の壁、スポーツの壁が低くなったことがあります。日本が朝鮮・韓国を植民地支配していたとき、たとえば、民謡のアリランを歌ってはいけないという文化政策、文化侵略をしていた。これへの反発から戦後韓国では日本の文化が流れ込むのを防ぐという趣旨と、独自の韓国の文化を守るために、日本で作られた映画や音楽を韓国で公演させないと言う決まりを作っていました。
 その決まりに、ひとつの風穴が開けられた映画が1999年、田内千鶴子さんを主人公にした映画「愛の黙示録」でした。これがきっかけとなり、互いの文化の壁が低くなったと思います。その3年後、2002年には日韓の共同開催でワールドカップが開かれた。そのとき、日本は本選のトルコに敗れたが、韓国がイタリアに勝ち、スペインにもPK戦で5対3で勝ち、アジアの国として初めて4位に入賞しました。その韓国チームの活躍を日本の人たちはわがことのようにテレビで応援していたことを覚えています。
 さらに大きな変化が起きたのが翌2003年です。歴史的というと大げさですが、画期的でした。それはNHK−BSが海外ドラマの枠で放映した「冬のソナタ」が、爆発的なヒットをとげたことです。主役のぺ・ヨンジュンを「ヨン様」と呼んで多くの方々が、ロケ地などをツアーで訪れる現象が起きました。
 知事時代にも、いい年をした婦人が東方神起のために韓国ツアーに行って、回る人もたくさんいた。しかも、お父さんがやっている美容室や焼肉店まで知っていて、今回はそこに行こうということまでする、全く壁がなくなったということでしょう。
 韓国の女性歌手グループの解散など、昔だったらどうでもいいだろう、というような話にも、関心をもってニュースになる。最近では、恵比寿ガーデンプレイスというところにあった名画座系の映画館が閉館になったが、ここが韓国のポップミュージック、K-POPの専門シアターとしてよみがえるなど、壁がないに等しい状況になりました。
 韓流ブームと言われるが、ブームは完全に通り越して、二つの文化が溶け合って手を結ぶ時代を迎えています。ただ「愛の黙示録」でも冒頭のシーンで、日本が占領した時代に日本がとった非人間的な行動を追及するシーンがでてくるように、韓国では反日の教育が行われてきました。

千鶴子さんが遺してくれた共生の芽

 60年を過ぎた時代で、互いの傷跡、つめ痕をどうやって乗り越えて行くのか、先ほど、瘡蓋(かさぶた)をはぐのではく、どう重ねてゆくのか、という話がありましたが、どうやって癒してゆくのか、ということが、田内さんが遺した課題のひとつではないかと思います。
 また、こういう話もあるのか、思って聞いた話があります。それは、漫画家の里中満知子さんから聞いた話です。里中さんは、アニメ、漫画を通じて中国、韓国と交流を重ねていますが、その中で韓国の青年が「自分は子どものころからアニメや漫画が好きで、読んで育ってきた。自分はアニメや漫画で自分の心や感性が育てられた、と思ってきた。一方で、小中学校で日本に対する教育を受け、日本というのは鬼のような民族なのだと思ってきた。ところが、ある歳になって気づくと、そのアニメや漫画はみな、日本人が書いた、製作したものと知って、自分は鬼のような日本人と同じ感性、感覚を持っているのだろうか、と感じてショックを受けた」という話がありました。
 その青年は続けて「考えると自分は日本に行ったこともないし、日本人とじっくり話したこともない。なら、一度、日本に行ってみようかと思った。日本に行ったらひどい目に遭うかもしれない、と1週間悩んで、しかし、意を決していってみた。そしたら、日本という国は自分がイメージしていた国ではないし、また、自分が考えていた人たちではなかった」というのです。
 この青年は、自分の経験から、多様な価値観を持つことがいかに大切かを実感し、それを自分の経験に終わらせず、その経験をもとに子どもたちに、次の世代の子どもたちに多様な価値観を教えてゆきたいと思い、教育者になる道を選んで今、勉強している、という話でした。
 このように、田内さんが遺してくれた共生の種、共生の芽はあちこちにまかれ、あちこちに芽生えているのではないでしょうか。

梅干とキムチ

 田内さんが亡くなったのは、日韓基本条約が結ばれた3年後のことです。ところが、田内さんが亡くなられるときに、もうひとつの物語が生まれました。それは、田内さんが段々、弱ってきたときに、それまでずっとチマチョゴリを着て韓国語を話してきた田内さんが日本語で話すようになり、尹基さんの耳元で梅干を食べたいと言ったことです。
 この母の状況を見て尹基さんは、これまでチマチョゴリを着て、キムチを食べた母になれていたが、最後はこう変わってくるのかという驚きと同時に、長く韓国に住んでいても、最後にしゃべりやすいのは日本語であり、最後に食べたくなるものは日本の食べ物なのだと感じたそうです。
 ジョン万次郎にも同じような話があります。帰国して東大の先生などをしていたが、晩年近くになって、米国から古い友人が来たときに、ほとんど英語が話せなくなっていたというのです。長い間、話す環境になかったということはあるだろうが、二つの文化をまたいでつなぎながら一生を貫いてきた人が最後に先祖に戻る、というのはジョン万次郎と田内千鶴子さんに共通するものがあったのではないか、と感じます。
 もうひとつ、番外の話ですが、坂本竜馬と田内さんにも奇妙な共通点があります。
 それは、誕生日と命日が一緒だということです。坂本竜馬は1836年11月15日に生まれ、「船中八策」を遺した慶応3年、1867年11月15日に京都で暗殺された。田内さんも1912年10月31日に生まれ、56歳の誕生日を迎える1968年の10月31日。まったくの偶然です。私もたまたま資料を整理していて、気づき、たまたまなのですが、土佐人として、国と国の壁を越えて、人と人の壁を取り払ってゆく、という同じ思い持っていた人の偶然の一致点ではないか、と面白く思いました。

「世界孤児の日」に向けて

 田内さんが亡くなったとき、木浦では初めての市民葬が行われて、3万人もの市民が哀悼に訪れました。それだけ、地元の人が愛し、尊敬していたのだと思います。「愛の黙示録」に書かれた文章を見ても、木浦市にシュバイツアーのことを知らない人はいても、田内千鶴子のことを知らない人はいない、という下りがあります。日本では逆で、田内さんを知らない人はまだまだ多い。日本と韓国をつないだ人として、もっともっと田内さんのことを多くの人に知ってもらう必要があると感じます。
 ちょうど、来年の10月31日に、田内さんの生誕100周年を迎えます。この機会に木浦市で「世界孤児の日」という催しをしようという計画が進められています。ソウルから木浦へ、釜山から木浦へとリレーしながら、その交差するところでアリランと高知の「よさこい」で迎えようという計画です。
 ただ、考えるべきことがひとつ残っています。これは「孤児」という言葉をどうすべきか、ということです。私も知事時代に児童養護施設の子どもたちを呼んで一緒に話したことがある。施設へ出かけたこともあります。そのとき、子どもたちを取り巻く環境が昔とは全く違っていることを感じました。
 昔は親をなくした子ども、親に見捨てられた子ども、両親と音信がとれない子どもたちが、ほとんどだったが、今の児童養護施設ではそうした子どもたちはほとんどいない。親の居場所もわかっている。受刑中だったり、借金に追われていたり、子どもとコミュニケーションがとれない、などです。「孤児」という言葉が死語になっていると言ってもいい時代です。このことを尹基さんに聞いたら韓国でもまったく同じ状況だと言います。
 そういう時代を前に「世界孤児の日」の行事を行うときに、何か今の子どもたちを表す新しい言葉を考えるべきか、それとも、その言葉を考えることが新しい差別を生み出すかもしれないと考えて、名前をつけること止めるべきか。そのこと自体も、田内千鶴子さんが遺してくれた現代の課題なのかと思います。

「故郷の家・東京」が必要

 一方、もうひとつのテーマである「梅干が食べたい」にどう応えるのか。「故郷の家・京都」のホームページをみると、そこに78歳のオモニを持つ在日2世の方の手紙が載っている。その人は戦前、済州島から日本にきた方で、ずっと日本で暮らし、日本語もぺらぺらだったが、ある日、脳梗塞を起こして、それ以来、韓国語しか口から出なくなった。ところが、手紙の主である在日2世の本人も、日本人の奥さんも、お子さんも、誰も韓国語を話せない、分からない、そういう環境で、78歳になる親が、どんな思いで、時を過ごしているのだろうな、と思っているという手紙でした。
 こうしたことを考えると、差別を受けた苦しい時代に頑張って、子どもたちを育ててきた在日1世の方々が、最期の段階で、もし寂しい思いを募らせているのであれば大変、悲しいことと思います。韓国の慶州に「慶州ナザレ園」という施設がある。これは戦前、韓国に渡り、現地で結婚した日本人妻の方々が、戦後、いろいろな理由で帰れなくなった人々を一時的に保護するために1972年に開設されました。
 そこで日本に身内がいるなどの理由で数十名は日本に帰りましたが、どうしても身元引受人を見つけられない、あるいは、自分はどうしても韓国に残ると言う人々については、今は養老院という形で面倒を見てもらっています。
 在日1世として苦労してきた人々に、どうやって豊かな余生を送っていただくか、尹基さんの言う梅干もあれば、キムチもある、という老人ホームをどうやって作ってゆくか、ということは、日本の共生ということを考えたときに、大きなテーマだと思います。そういう思いで、1989年に堺市に最初の「故郷の家」をつくり、続いて「故郷の家・神戸」「故郷の家・京都」ができた。それを東京にも「故郷の家・東京」をというのが今日の会の趣旨です。
 在日コリアン高齢者の人数を考えれば、近畿だけでなく、東京はもちろん、広島、福岡などにも必要です。全国10ヵ所は必要と尹基さんは言うが、その通りだと思います。田内千鶴子さんの成し遂げた仕事は、3000人の孤児を育て上げたというだけでなく、そこから日韓の文化交流の壁をなくし、お年寄りをどうするか、などさまざまにその裾野を広げていると実感します。

若い世代にどう引き継ぐべきか

 そのうえで、こうした運動にさらに期待するのは、若い世代の人にどう関心を持ってもらい、参加してもらうかです。これは障害者福祉の分野の話ですが、二つの運動で、若い世代と出会う機会がありました。ひとつは、障害者にさまざまなビジネスの提案をしてもらい支援するという、障害者のビジネスコンテストですが、これには多くの障害者の方々が参加しています。もうひとつ、昨年の秋口ですが、羽田空港をぶらついていると、声をかけられた。障害者の就労支援の仕事に対し強い思いをもち、その情熱に素晴らしいものがあると感じて、私は生涯で初めて、その会社の顧問という肩書きをもらいました。
 「故郷の家」の取り組みの中に、韓国の若い人に就労ビザできてもらい、日本の大学で学んでもらったらどうか、というプログラムがあります。そういう皆さんに、在日コリアとして苦労された方々との、二つの文化をつなぐ役割をしえてもらうのは当然ですが、そこで感じたこと、経験を日本の若い人たちにつなげてもらいたい。そうした交流があれば、次の世代を支える大きな交流になってゆくし、大きな広がりができると思います。
 田内千鶴子さんの遺されたものは、深くて大きなものがいっぱいあります。まだまだ、踏み切れていないものも多くあると思うが、さらにいい芽、いい種を広げてゆくのも、私たちの大きな役割ではないかと思います。
「故郷の家・東京」実現への取り組みも、その大きな一歩です。私も微力ながら、この運動に関わらせていただければと願い、お話を終わらせていただきます。ありがとうございました。 (了)

*この講演は、2011年3月9日(水)、東京・アルカディア市ヶ谷で開かれた「在日韓国老人ホームを作る会」26周年記念東京大会で行われた記録です(文責:在日韓国老人ホームを作る会事務局)。

橋本大二郎(はしもと・だいじろう)氏

前高知県知事、早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授
1947年、東京生まれ。慶応大学卒。1972年NHK記者、福岡放送局を皮切りに大阪、東京で主に社会部記者として活躍し、その後、「NHKニューTODAY」の社会部門のキャスターとして、昭和天皇の闘病、崩御、今上天皇の即位など皇室報道を担当。社会部デスクなどを経て、91年にNHKを退社。
1991年11月、高知県知事選挙に立候補し、当時の知事の中では最年少の44歳で初当選。2007年に自らひくまで4期5選、16年間にわたって同県知事を務める。知事時代は、地方自治の新たな試みを実践し、行財政改革に取り組み、官官接待、人事諮問制度やヤミ専従の廃止などを断行、また、高知工科大学を公設民営という新方式で開校、1・5車線道路の予算化など改革派知事の先駆けとなった。
現在はメディアへの出演、全国での講演活動を行っている。
橋本竜太郎・元首相は兄。父の橋本龍伍氏は厚生大臣、文部大臣などを歴任した。


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